後発メーカーの苦心

新規の参入はシェア・ゼロからのスタートとなります。


販売網の整備と運転資金には、莫大な投資を必要とします。


販売戦力の養成には長い年月が要るもの。


高額の商品である故に、大方のユーザーは商品の知名度や既成の信頼性を重視して、安心を買う選択にかたむきます。


中古車の検索サイトなどでもそうですよね。


新規参入メーカーの苦心はこれにとどまりません。


社運の賭かる商品の知名度は、全国紙に1頁広告を二度や三度打ったからとて、効果的に滲透するものではありません。


・・・それでことが足りると思うのは、広告を発信する側が陥いる錯覚に過ぎず、ほんとうのところは、セールスマンが見込み客のところに日参を重ね、断わりを喰う度数に比例して認知を増す性質のものと言えます。


この間、他社製品との熾烈な競争もあります。


加えて後発メーカーが出揃った30年代後半には、貿易自由化を軸とする開放経済体制への移行が大詰の段階にあり、自動車業界は国際競争のなかで生き残る戦略をも立てねばならない事態に追いこまれました。


マツダファミリア

こんにちは。


今日は、今でも中古車情報の多いマツダファミリアの話をしたいと思います。


今でこそ眼にすることもなくなりましたが・・・


昭和30年代には先発メーカーとか、後発メーカーという冠詞が、報道記事によく使われました。


その使われ方を乗用車業界に限ってみると、トヨタ、日産の2社だけが先発メーカーであり、そのほかはすべて後発メーカーの扱いを受けました。


報道記事に見るかぎり、先発あるいは後発の文字を冠することに格別の意味があったわけではありません。


それはせいぜい乗用車の製造歴を、ひと言で表現するのに便利という程度の意味合いであったかと思います。


しかし後発グループに属するメーカーが、乗用車市場に新規に参入してゆく過程には、実にさまざまな難関が待っていました。


難関の最たるものは販売のむずかしさです。


次世代のくるま

いすゞ自動車がベレットの企画に着手したのは、昭和34年のことです。


折から日本の工業分野には、業種を問わず初めて技術革新の意識が芽生え、それはたちまちのうちに酒々とした流れに化しました。


日進月歩の新技術・・・。


この年代にそれを鋭敏に反映したのが、中古車情報の多い乗用車であったと言えます。


眼前に展開する販売競争は、一面技術競争でもありました。


しかし見落としてはならないのは、この当時から技術者たちの眼が、世界の市場に向けられていたことです。


追いつけ、追い越せの目標は世界・・・。


これが技術者の意識であり、歴史的には『時代の姿』であったと見なければなりません。


昭和34~35年あたりから次々にデビューする国産乗用車が、高速性能を競い、車体重量の軽量化に苦心し、高速安定性能の向上を重視したのも、目的は一つ、世界に通用するためでした。


いすゞベレットはその水準を具えて誕生しました。


世に在ること11年、次世代モデルにバトンを渡して墓標の列に入りましたが、くるま昭和史を飾る立派なモデルであったと思います。


ガソリンとディーゼル

ベレットは38年第10回モーターショーに出品され、初めて大衆の前に姿を現しました。


丸味を強調したスタイルに観客の人気がどう反応を示すか・・・。


メカに弱いわたしなどはそのへんに興味を持ったことを思い出します。


すでにトヨタ、日産が寡占体制を固める小型乗用車の分野に切りこむだけに、ベレットには数々の特徴と機能が備わっていました。


今では普通のことですが、ワイドセレクションとしたのはこのべレットが元祖格です。


ガソリンとディーゼルの2種、コラムシフトとフロアシフトの2方式、ベンチシートとバケットシートの2タイプ。


それにサスペンションに四輪独立懸架を採用したのも、このモデルが最初であったように思います。


ベレットはそれから11年間、ジェミニにバトンを渡すまで、部分的な改良を加えられながらもモデルチェンジなしに生きつづけました。


ベレットは今ではさすがに中古車情報なども少ないですが、当時はかなりの人気を誇ったのです。


・・・そのこともこのモデルの特徴と言ってよいかもしれません。

ヒルマンの乗用車

契約が切れればロイヤルティを支払うこともなくなる代わりに、ヒルマン名の乗用車を作ることもできなくなります。


中古車の情報などでも一番多いのが乗用車なのに、それでは困ってしまいますよね。


一方、通産省は期限の延長は認めないことを、認可の当初から言明しており、いすゞもそれは約束しています。


しかし、外貨での支払いを要する提携料・・・


ロイヤルティが要らない提携契約であれば、政府の認可も必要ありません。


そこでいすゞがルーツ社に対し『提携料なし』の条件での向こう3年間提携延長を提案。


・・・これにルーツ社が同意したのです。


この延長契約成立により、いすゞは40年3月まで3年間、ロイヤルティ(月額800万円程度)なしでヒルマンの生産を継続できる道が拓けたことになります。


この段階でヒルマンは月に1000台前後の安定した売れ行きを示していました。


仮りにポスト・ヒルマンのいすゞモデルが予定の生産・販売を達成できない場合・・・


最低限ヒルマンの生産継続で採算をカバーする計画が成り立ちます。

いすゞとルーツ社の提携延長

前回紹介した産経新聞の記事にある生産目標が月産3000台・・・。


それも小型トラック・ワスプと合計してのものだけに、いすゞのかなり慎重な態度がそこにほの見える思いがします。


藤沢工場の採算がこれでとれるのか気になるところですが、それだけに価格の設定にはずいぶんと苦心したことでしょう。


ベレルのような失敗は二度と許されません。


二の舞いをやったら会社の命とりになりかねません。


中古車情報などを見るとよくわかりますが、一般的な人気を得ることが出来るのはやはり乗用車。


いすゞの慎重な態度はそこに発していたのでしょうが、万一に備える対策は、実は別途にも構じられていました。


ルーツ社との提携延長によるヒルマンの生産継続です。


話はすこしさかのぼります。


いすゞ自動車とルーツ社との提携契約は、昭和37年3月末に期限切れになることが決まっていました。


新型乗用車の発表

昭和38年6月18日付の産経新聞によると・・・


「"新型乗用車いすゞベレット2種発表"


"ガソリンとディーゼル"


自動車界は新三菱の乗用車コルト1000の発表を皮切りに新車開発競争の様相をみせているが、いすゞ自動車も17日、新型乗用車「いす.ベレット」(排気量1500㏄ガソリンと1800㏄ディーゼル)2車種を秋のモーターショーまでに売り出すと発表した。


同社ではこれで総合自動車メーカーの形態を整えたと言っており、とくにディーゼル車の幅を広げているのが特徴的である。


1500㏄はガソリン車で63馬力.5000回転、最高時速137㎞。


1800㏄は世界最小というディーゼル乗用車で50馬力・4000回転。


最高時速110㎞。


いずれも5人乗り。


価格は未定だが、1500が65万円前後、1800ディーゼルはその4万円高程度の見込み。


なお新しい1トン積みトラックとして「いすゞワスプ」2車種も秋から市販。


月産台数はベレット、ワスプ合計で3000台の予定。」


・・・いつも思うことですが、新型車の発表を伝える新聞記事は、主観を交じえず、それでいて発表車の特徴をよく伝えています。


わたしは中古車情報と共に、こうした新聞の新型車情報もいつもチェックすることにしています。


ベレルの悲劇

東京のパレスホテルで行なわれた発表会の席上、三宮社長は


『わが社が創立以来培ってきた技術と、これに加えてヒルマンの国産化を通じて体得した新技術の精髄とをフルに活用して完成したのが、本日発表の新型乗用車・いすゞベレルであります』


・・・と紹介しました。


いすゞ自動車のべレルに寄せる期待は大きく、巨人軍の長島選手をキャラクターに採用して宣伝にもつとめました。


ベレルは、しかし売れなかったのです。


バリエーションに揃えたディーゼルエンジン搭載車が、わずかにタクシー業界に売れただけであとは散々の成績に終わりました。


いすゞのポスト・ヒルマン第1号は、悲劇のモデルの道を歩いて消えました。


不安な思いが尾を引くいすゞ関係者にとって、ベレット発表の翌日の新聞記事は、何といっても気にかかります。


その一つを次回、紹介しましょう。


乗用車の人気

もしベレットに不評が集まれば・・・


中古車としても人気の高い乗用車、小型トラック合わせて月産2万台の生産能力を目標に建設された藤沢工場は、たちまち遊休設備と化して会社の財務面に甚大な悪影響を及ぼすでしょう。


投入した販売資金の回収もおぼつかなくなります。


大げさな表現かもしれませんが・・・


藤沢工場の建設が命とりとなるか、企業発展のバネになるかの命運の岐れ道が、ベレットに託されていたのです。


いすゞ自動車は、この時点では乗用車の経験が浅いのです。


ベレット宣伝の字句にこそ自信の文字が躍っていましたが、関係者の不安は定めて大きいものがあったものと想像されます。


その不安の原因はほかにもあります。


いすゞ自動車はべレットに先立つこと2年、これぞヒルマンの後継車として、昭和36年11月にいすゞベレル(2000㏄)を発表(発売は37年4月)しています。


ブルーバードとコロナ

2代目ブルーバード(410型)はヨーロッパ調のスタイルがなぜかユーザーの不評を買って臥薪嘗胆のコロナに追い抜かれ、これがその後のトヨタに対する日産劣勢の遠因となりました。


いすゞベレットが報道関係者に発表されたのは、昭和38年6月17日のことです。


わたしの感覚のなかにそれはつい昨日のことのように生きていますが・・・


流れた歳月を思えば、すごく昔のことになりますね。


デビューしたべレットは、いすfにとって実に重要な意味を持っていました。


・・・というのは、いすゞの総合自動車メーカー体制が確立されるかどうかが、このモデルの成否にかかっていたからです。


37年1月に稼働を開始した藤沢工場には、すでに230億円もの建設費が投入されていました。


この金額だけでも、当時のいすゞの資本金150億円を越えています。


全国に配備した乗用車ディーラーは30店を数え、ここにも莫大な資金が投入されています。


ネットなどで中古車情報を見ればすぐにわかることですが、やはり一般消費者にいちばん人気が高いのは乗用車です。


いすゞが莫大な資金を投入するだけの理由は十分にあるといえます。